昭和45年3月17日 朝の御理解

御理解第七十九節
「商売をするなら、ば買い場、売り場と言うて、もとをしこむ所と売り先とを大事せよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」



 男が女を演じる時、そこには女以上の女が生まれる。それは女になりきろうとする努力、勤めると言う事がそういうことになるのです。男が女を演ずる時、そこには女以上の女がある。それは女になりきろうと勤め抜くからです。勤めると言うこと。
 信心とはわが心が神にむこうのを信心と言うのじゃと、人間が、ね、いよいよ神に向こうて精進する時、人間以上の人間、それは人間性を無視するというのではなくて、本来人間の性根の中には霊性、そして、またその神性というものが受けられておる、ね。
 私共が、俺達は人間だからと、人間だからこのぐらいなことは当たり前というような事になる時、人間でありながら心は鬼か野じゃかと、まあ、ちくしょうのような人間がたくさんあると言う事は、ね、俺は人間だからと言う例えば、言うような考え方をするから
ね、人間らしい生き方も出来ないのです。
 私達が信心によってです、信心とは和賀心が神に向こうのを信心と言うのじゃと教えられるのですから、私共が心が神様へ向こうていくという精進してようやくそこに初めて人間らしい人間、それを真の人とこう言う訳であります。
 真の人はただ人がよいから、正直だからというだけではいけんのです、ね、真の人になるために私共は精進をする、それを少しオーバーのようですけれども、ね、神になる稽古と、わが心が神に向こうていくということ、そういう精進をさせて頂くということが勤めると言う事である、ね、それは、男が女を演ずる時、そこには女以上の女があるようなものです。
 女の人は、私は女だと、勿論女には違いないけれども、それこそ、ね、女やら男やら分からんような、まあ、言うならば、民主主義の吐き違いとでも申しましょうか、ね、どこまでも、やはり、ね、おじいさんは山に芝刈りにであり、おばあさんは川に洗濯にというのが男女の道なのです、ね。最近では、ね、主人に御飯を炊かせる、洗濯をさせる、それがいかにも仲睦まじい、いわば、人間関係を作っていくように思うておる。大変な根本的に間違っていると私くしは思うですね。
 おじいさんは山に芝刈りにであり、おばあさんは川に洗濯にである。そこの所をです、私は努力しあうと言う事。洗濯なら洗濯に、ね、尽くしきると言うこと、芝刈りなら芝刈りに尽くしきると言うこと、男は男の行き方、女は女の行き方のそこの生活の現場と言うものをです、大事にして、いよいよ勤めていく事だと思うんです。ね。
 そこでです、今日の御理解は教典を紐解かせていただきますと、商売人に対する御理解と思われると、まあ、これが一つのようなものですけれども、これは、あながち、商売人と言うことだけではない、ね、商売をするなら売り場借り場、買い場というてと言うて、そのしこむ所、売り先を大事にせよと仰ったり、最後の所には、ね、やはり、二銭、損するようだけれども、十銭のものを八銭で売ると言う事は二銭損するようだけれども、そのほうが得じゃと仰ったり、身はちびるものでないから、ね、働くがよいと、ここに努力をする事を教えておられます。
 そこでですね、私は、まあ、ここから今日ヒントを得てから、ただいま申しましたようなことを申しましたんですけれどね、よくそこんところを一つ分かって頂きたいと思うのです。
 商売をするなら、やはり、商売に徹することだと思いますね、もう、本当に商売人になりきる事だと思うんです。
 商売しとるから商売人と、例えて言うと、ね、自分は女に生まれておるから女だと言う所にその女らしさもなんもなくなっていくようにね、むしろ男が女になりきろうとする時、ね、それこそ、その動作一つの中にもです、こぼれるような、いうなら、女らしさと言うか色気と言うか、そういうものが出てくる、ね。
 私は勤めるということはそのようなことだと思うんです。だから、俺は人間だからこんぐらいなことは当たり前と言う所にぜんぜん、人間だからこそ勤めなければならない、本当の、いわゆる、真の人間になるために、そこを信心とはわが心が向こうていくのが信心というのじゃと仰る。そこんところの道を辿らせて頂く内にです、本当に人間らしい人間、いうなら、真の人のことの人間がそこにある訳です。ね。
 ですから、これは商売をしておるから、(商人-あきんど)だから、もう商人、物を売っとるから商人だというんじゃなくてね、本当に商人に徹することなのだと、そこんところをです、身はちびものちびるものではないからとこう、ね、働くがよい。例えば、百姓なら百姓がです、百姓に徹するということなんだ、だからそこには百姓らしい百姓、いうならば篤農といわれる、いわらば、本当の百姓らしい百姓が生まれるわけなのです、ね。 そこで、なら、ね、買い場、売り場をというておられます、そこでね、ここのところに私は今申しました根本的なところから一つ分かっていかなければならんと思うのでございます、ね。
 なるほど世の中には、あの人は商売人だと、素晴らしい、ね、なかなか頭の回転が速い、ね、親切、ね、履行なん、ああいう履行にされるなら一つ買おうと思うものは二つ買お履行うとなってくる、愛敬がいいと、と言う商売人はたくさんおりますがね。
 私共も、やはり商人でしたから、そういうことばかりを研究しましたですね、言葉の使い方一つで二つ売れるんですから、押し売りしなくても、ね、いらんと思うたって、んなら頂いとこうかというようなふうになるんですからね、こりゃーもう本当に面白いごたるです、本当にやはり商売人になりきろうというならですね、やはり商売人になりきるためのそういう努力をするわけです、しかし、今から考えてみるとです、根本的に間違えておったなあと言う事です、ね、だから、表面、商売人だというのではいけんのです、どこまでもね、根本的なところが分からせて頂いての商人であり、百姓であり、または勤め人であり、まあ、これは皆にそれが、商売人に限ったことじゃないと思うです。ね。
 だから、その勤めると言う事は、ただいま私が申しますようにね、男が女を演ずる時のような勤め方、ね、それになりきろうと勤める、男性であるためにほんな女にはなれんけれども、女性を演ずるからにはやはりその女性のすばらしさと言うものをです、やはり、稽古させてもらわなきゃいけない。ね。
 とにかく、歌舞伎のあの親的といいますね、もう普段からその稽古がある、とにかく、ここの足の足と間の間に一枚の白紙をはさんで歩くというわけ、それを落とすような事では女方は勤まらんと言うわけ、ところが今ごろの女子の人達はてんでこうやってから、(笑い)外がまで歩く人達が多くなったですからね、男らしい女性が大変多くなった訳です。
 そして、いうなら家庭問題、家庭のいろんな悲劇の元を作るわけですよね、色気が無いもん第一、ね。ですからね、例えば本当にそういう努力、信心もそうです、俺は人間だからこんぐらいなことは当たり前ではなくてですね、それこそ、人間がね、いうなら神様になる稽古させて頂くぐらいな精進させて頂いて初めてです、和賀心も体験させて頂けれるし、ね、いわゆる、本当の信心生活の有り難さも分からせ頂くし、いわゆる、真の人としての生き方、そこには、いわゆる真の道があり、真の道を踏んでいき、そこには真のおかげが受けられる。
 そういうところのですね、根本的な一つの原理とでもいうようなものをですね、先ずマスターしてからの商売であり、百姓であり、それぞれの立ち触らせていただく御用だということになってくれば素晴らしい事になるだろう。
 教祖様はこういうことを教えておられますね、神様のお恵みと言う事はとりわけものがどうして生きていくか考えてみても分かる、ふんじゃからとて重ね着をするのではなし、夏になっても一枚脱ぐと言うような、いうこともない、それで、ちゃんと差し支えがないように育てられ、そだててやらっしゃると頂きます。それはそうですよね、しかしね、今日私が言おうとするその根本的なというところはここの事を皆さんに分かって頂きたいと思うのです、ね。
 鳥や獣が生きていくという、冬じゃからと言うて重ね着をする訳でもない。夏だからと言うて一枚脱ぐと言う事も無い、それでもちゃんと立ち行くおかげを下ったておるのだと言うわけです、まして人間ですもの、まして人間万物の霊長である同時に神様はね、それこそ、たくさんな動物なら動物の中でも、ね、人間を可愛い氏子とさえ言うて下さるのですもんね。
 その人間がですよ、ね、立ち行かないはずは無いと神様のおかげを頂けば、ね、それも、私は、それこそ、皆さんいやと言うほどお話を頂かれましたですね、ここ二十年代、ね、成り行きを大事にさせて頂くということなんです。ね。
 成り行きと言う事はそのまま天地の働き、自然の働き、その働きそのものを本気で大事にしていこうという精進、努力なのです。ね。
 そこにはです、例えて言うと、私が日にち体験しておりますようにですね、生かされて生きておるなと言う実感、しかも素晴らしい生かされかた、言うならば、必要なものが必要に応じて、と言う訳なのです。ね。
 昨日から、久留米の梅里先生が客室の前の庭造りにきていただいた、お弟子さんをつれて、もう私はもう今日と明日だけしかなか、もうあとはまた宮崎に長い間いかんならんが、これはまた半年先なるやら一年先になるやら分からんと思いよったら、丁度この日があいておって、これが前の日ならお湿りでどんこんどげじゃったが、まあ、ここは不がよはなさったと言うふうな意味のことを言われるんです。
 そして、第一、まあ驚かれたことはですね、自分がここの高山さんにあそこの手洗いの石を添えられますのにこう言うような石を用意せろと言うておった所が、私がその石をいっちょもっとるからお供えしたいと思うと高山さんがいうた、なら見てくださいと言うから見せて頂いたら、私がこう言うような石と思うておるほどしの立派な石じゃったちいわれる。昨日あそこへ座らせて頂いたら、もう座らせて頂いたらもっと素晴らしゅうなった、丁度先生、その椅子のほうからみてくださいち言われるから見に行きましたら、見事に座っております、ね。
 そしてから、たまがえることは、ここは皆さんが皆奉仕をされる、言わゆる勤められるという、何人もの方に奉仕をしておられる。そして、ここにこう言う石がちいうなら、なら私の方のを持って行ってくださいって、(笑い)、これは正義さんが今にたくさんこずんどる石の軽いとを持っていってくれというて、他に石はたくさんいる訳です。これはここに一つ燈篭を据えたら、なら燈篭は私が献納させて頂こうと言う人が次々出てくるから、これは先生私共も弟子と二人で二日間だけはもう奉仕させて頂きましょうというて昨日言うておられます、ね。
 こんな気分がよかことない訳ですよね仕事させて頂いて、思う以上の仕事がでけていくだけじゃなくて、集まるものが素晴らしいものが集まっている。それで私も、お茶を昨日、久富さんが朝から、大変お茶が好きですから何回もお茶を頂かれますから真心を込めてそれこそお茶の御用をなさっておられます。ところが、今は甘いものが、その、あるけれども、まあ、歯がぜんぜんご承知のようにあの方はなさらんですから、やわいものじゃなかいかん、んでまあ、おかげを頂いてから、ないというてもやっぱり先生( ? )なんきゃかにかこう、ありますけれどもです。
 けど、私は先日からですね、あの、あれは秋月かね、秋月で九代も続いたというお菓子屋さんやでそれで珍しいくずをつくっておる、それで私この頃永瀬さんところでじゃなかったかと、呼ばれた時にですかね、あーこの頃総代会の時だったか、それがあんまり珍しく美味しかったから私が誉めとったもんだから、また、昨日、一昨日もってきてやんなさいます、で先生、あの、くずような珍しいのを頂いておるから、あの、差し上げましょうかいうたら、もう、私はこのくず湯が一番大好物ちう、もう日本中の名物のくず全部しってないさいます、自分が好きですから、ほらゆずきのある、あれのショウガの入ったくず湯は、まあ、とにかく天下一品です。それがここで呼ばれるならいっちょ呼ばれましょうち言うてから、いわれるんです。ね。
 もう、神様がちゃんーと前から前から最高に喜ばれるようなものがここにあって、準備してあると言う事ですね。それは、どういうところに原因するかというとですね、(笑い)そういうおかげが段々頂けるようになったかというとですね、神様がね、神様が、ね、生かしてくださるんだと、人間は神様が、例えば鳥やら獣ですらを神様はあーしてお育て下さる。教祖様がここで仰っておられるように寒いからと言うて重ね着をするわけではない、暑いからと言って一枚脱ぐわけでもないのにお恵みを下さっておる、特に弱き者、いうなら、小さい小動物なんかはそれに特別の保護まで加えてくださる。
 あの、保護食の動物なんかそうなんです。ね、引きガエルなんかが、小さいながら、白い壁にとまると白になってしまうですね。青い葉に止まると青になってします。あー言う働きがです、元が天地金乃神様の働きなのです。ですから、まして人間万物の霊長たるものがです( ? )あろうはずは絶対にないとです、いや、そうだけじゃない、もう必要なら必要なものがです、金が必要なら金が、ダイヤが必要ならダイヤを、ね、今いう、くず湯が最高に必要であるならくずをです、集めてくださる。これは合楽の生き方を皆さんが御覧になったら一番分かるでしょうが。ね。
 ですから、そういうおかげの頂けれる心の状態というものがです、ね、どういう勤め、どういう修行によってなされるかというと、いわゆる、成り行きをそのままを神様の働きとして、例えば、そこはしるしい、または苦しいけれども、頂き抜いていくうちにです、私共の心はいよいよわが心が神に向こうていく進展を遂げて行くのです。ね。
 そして、そこにはです、真の人があり、真の道がはっきりしてくるのです。その真の道を歩くから、ね、神様は、いうなら必要な物が必要に応じて、お金が必要ならお金、着物が必要なら着物、それも段々向上して行くに従って素晴らしいことになっていくと言う事もここ20年代のここの私が受けておる、皆さんが受けておられる体験がそれが分かられるだろうとこう思うです。ね。
 ですから、ここにはです、例え十銭のものをです、ね、目先は損のようでも二銭安う売れとこう言うておられるがです、ね、例えばです、商売人がね、勤めると言うことはね、そういう根本的なところを分からせて頂いて、自分の我情、自分の我欲、ね、で人の茶碗でも叩き落してからでも金儲けのためならばと言うような生き方が、いかにつまらない、浅はかなことかということを分からせてもろうて、とにかく人が喜ぶ事ならば、お客さんが喜んでくださる事ならば、そこに目先が二銭損のようであってもです、ね、私は商売人の根性というのはそこだとこう思うんす。お客さんが喜んでくださる事ならばです、ね、目先が二銭損のようであっても、そこを奉仕する、いわゆる、今の言葉で言うたらサービス精神なんです。ね。または、今日の御理解から言うと勤めるのです。ね。
 お勤め銭もある、これはもう、けれども次に売らん金の為に、安売りをしておる、売らん金のためにそこになら勤め品があると言ったようなものじゃなくてです、ね、私は商売の生き方、商売の根本的なやり方というものがです、今日私が申しますような所を根本にしての商売人に徹しなければならないということです。
 とにかく、仕入れ先を大事にしなければおられない、買うて下さるお客さんを大事にしなければおられない、ね、売り場買い場を大事にせよと、大事にしなければおられない心なん、手放してできる訳はないけれども、神様が見てくださると言う根本的な信ずる心と言うか、どんなしらごついうちからですよ、ね、私どんが昔の商売は、むご知らごついうとがよか商売人のごと思う(笑い)。
 本とですよ、もう、お父さんに掛かったら叶わんち、言われるぐらいに、ようだまくらかしてきたけん罰かぶった(笑い)、そこで苦労した、けれどもその苦労のおかげで今日のおかげを頂いておる。ね。
 そして、いわゆる、根本的なところが段々信心修行生させて頂く事によって分かってきた、自分達が生きていくんじゃない、神様に許されて生きていくという生き方、ね、食べ物ひとつでん神様に許されて頂くと言うあり方、そこに合掌しなければおられない、今日もお生かしのおかげを頂いて有り難いと言うその勿体無いというその心がね、商売に打ち込んでいくのであり、まあ、様々なそれぞれの職業に打ち込んでいけるのである。
 だからですね、ここは二銭安う売れとなんてんということはですね、必ずしも、そのただ安う売りをするというんだけじゃないです。例えばそうでしょう、なら福島さんあたりがみえとるが、あっちやったらタバコ屋さんですからね、そんならもう、よそが10円じゃけん、内は9円で売るなんてかえって怒られる。だから、そういう生き方ではないことが分かりますね、実際安く、そういうことだけじゃない、根本的なところが分かるということなんだ。根本的なところが分かるから、いよいよの時には損でもなかなければ、得でもないという損得じゃないと言う心が生まれる、ただ勤めてさえおればそれでよいというのである。ね。
 だから、そこんところの勤めるということをです、抜きにしては人間の本当の有り難い生活と言うものは生まれません。そこの精進がなされない限り、ね、はあーあっちはよう働きなさる、あっちは( ? )商売人だと、利口な、ね。
 ですから、なるほど商売が上手でもあり、よう働きなさるからやはり、人よりも余分にお金をとりよんなさるけれどもです、そういう人がやはり、ね、そういう商売人がです、あーいう素晴らしい商売人が破産をするはずはないじゃないの。
 そうして一生懸命働く人が貧乏するはずはないのに、やはり稼ぐに追いつく貧乏の足で貧乏しておる人が余りにも多いじゃないの、ね。だから根本を踏み違い間違いずして精進しなければならないと言う事。精進の、いわば焦点というのがです、まず、根本的に分からせて頂いておかげを蒙っていかなければならない。その上に体はつげるものじゃないから働くがよいと言う精進をさせて頂かなければならんのです。ね。
 どうせ、ね、神様が生かしてくださるのだから、神様がおかげを下さるのだから、もう神様に任せきってから自分はぶらぶらしときゃよかってなんてんちいうことではできん事が分かりますね。
 それは鳥や獣のように、無心になればまた別です、天地はそういう意味合いに於いてです、すべての生物と言うかね、とくに人間氏子の上にです、もう、生かさなければやまん、幸せにせねばやまぬと言う、もうやむにやまれん神様の働きを私共が分からせて頂いてその神様の働きに沿わせて頂こうという事がお道の信心なのです。ね。
 自分が働きげとるのごたる、もうそれは本当に、もう本当につまらんもんですよ、それこそ、砂上の楼閣と言うことを申しますね、どんなに勤勉力のようなお家を建てましても、どのような、なら贅沢が出来る身分になりましてもです、根本的なそこんところです、ね、間違えて、それがもし成就したにしましても、それは砂上の楼閣であり、ね、自分一代はまあまあよいに致しましても子が孫が返ってその事によって難儀、苦労魂魄しなければならないということをです、分からせて頂くということ。そこんところをです、天地の開ける音を聞いて目を覚ませと仰るが、お互いが本気で目を覚まさなければいけません。 こうやって頂いてまいりますと、この79節は必ずしも商売人にだけのことがじゃないことが分かりますですね、けれども、その原理というものは同じであります。
 私共が商売人なら商売に打ち込まなきゃならん、商売、本当の商売にならなければならん、ただし、それは信心で言う良い商売人である、なかなければならん、信心でいうよい篤農者でなかなければならん。ね。
 確かにね私共の、いわゆる、わが身は神徳の中に生かされてあると仰るが、そういう止むに止まれん神様の協力な働きをです、キャッチできれる心、それが日にち頂いております、和賀心なのです。和らぐ、喜ぶ心なの、その和らぎ喜ぶ心、言うならば、ね、賀は祝賀の賀と仰るんですから、そういう、とにかく有り難いとかめでたいとかと言う時にはです、もう本当に損やら得やら言うとらんで済むのです。そこから生まれてくるサービス精神こそが本当の意味においてのサービス精神なのです、ね。
 神様が喜んでくださるそういう心の状態をですね、私共は稽古していくのです。
 それは、丁度男が女を演ずる時、女以上の女がそこにあるように、私共がそのぐらいな気持ちでですね、信心させて頂くものの精進と言うものを信心を頂いておるんだと、それはわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃと仰せられるから、ね、私共の心が神様いつも向こうておる精進をです、それこそ、紙一枚でも自分のひざからはずさんで済むぐらいな、いわゆる、一つの動きと言うか働きさせて頂いてこそ初めてそこに、ね、本当の意味においての人間らしさと言うものが生まれてくる。ね。
 男が女を演ずる時、ね、そこには女以上の女がそこにあるようなものだと、今朝その事に非常に繰り返し頂くのです、そして、あれは、申しました、ね、鳥や獣の、あの道理のことを、だから、それが根本と言うことに、根本になってのその勤めるということはそういう精進をするということ、ね、そこから、私は、いわゆる、真の道もはっきりしてくる、そこにはね、いわゆる、真のおかげ真(しん)のおかげです、
 真のおかげと言うものは、神様が与えて与えてやまられないところのおかげを頂きとめるとことが真のおかげです。
 神様下さい、下さいというてです、やーやー言うて(願う-ねごう)て頂くおかげは、それは本当の意味においてのおかげではない事は知らなきゃいけませんね。
 どうぞ一つ、今日は商売人に対する御理解でしたけれど、必ずしも商売人だけのことではない、今日の御理解を頂いてそこんところを一つ根本として分からせて頂いて、本当に生かされて生きておるというそのことだけでも、その喜びが、ね、商売になり、ね、それぞれが頂いておる従事しておるその御用に、しかもそこは持ち場立場を間違えずに、商売人は商売人としての男は男、女は女としてのことを、ね、あの桃太郎さんのおじいさんとおばあさんの例を取りましたね、どこまでもおじいさんは芝刈りに山に行くのです。どこまでもおばあさんは川に洗濯に行くのです。それが本当のことなのですよ。
                                   どうぞ。


入力者 = 末永静行